【自己紹介】とれふるってこんな人

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こんにちは、とれふるです。

歳を重ね、アラフィフになりました。

私はこれまで、仕事を数回転職しています。

正社員・契約社員・パート・派遣社員…一通りの就業形態を経験してきました。

私が新卒で社会に出た時は、バブル景気が終わる頃。

タイミングが悪い時代でした。

全体的にどの待遇も悪く、思えばあまりオイシイ経験をしていないです。

どれも本意で始めた仕事ではなく、なんとなく損な働き方でした。

経歴を振り返りながら、私の自己紹介をします。

とれふるってこんな人〜私の職務経歴〜

私の中学・高校時代は1980年代。

中学時代の成績は中くらいでした。

何の特技もなく、運動も苦手だったので、勉強のできる秀才に憧れました。

基礎は出来ても応用力は身に付かず、高校受験は失敗しました。

意にそぐわないまま、志望校とは別の高校に入学しました。

大学卒業の肩書が欲しくて、大学受験を目指して進学コース選択をし、3年間休みも返上で授業と講習に参加し、勉強に励みました。

しかしながら、高校時代も成績は上がらず、段々勉強から気持ちが離れていき、大学受験も一次試験で放棄してしまいました。

急に就職へ方向転換しようにも、学担には就職活動のフォローはしてもらえず、進路未定のままで高校を卒業しました。

今で言うところのニートになってしまいました。

1. 製パン製造員

1980年代・10代最後の頃。

高校時代は大学進学を目指して進学校で学んでいましたが、挫折と失望感から進学を断念。(いつか機会があれば記事にします)

何も資格を持たない私が、最初にした仕事はパンの製造の仕事でした。

あまり食には関心がないので、料理を作ることが得意ではありません。

しかし、手芸や工作が好きで、手先が器用でした。

接客も、極度の人見知りで出来ない、と思ったので、たまたま求人募集をしていたパン屋さんの製造に応募しました。

ここでは約半年間働きました。

初めての社会人経験は、パート勤務で朝6時から昼12時まで、週6勤務で働きました。

このまま、パートやアルバイトで居たくない!と思った私は、このパートで稼いだお金で、専門学校へ入学しようと思いました。

安定した職を得るために、何か資格を取りたかったんです。

2.専門学校で学ぶ

1980年代・10代最後の頃。

専門学校では、パソコンは触る程度の講義があっただけ。ワープロ検定と簿記検定に向けた、最低限の講習を受けました。

取得した資格は、ビジネス文書処理技能検定3級。

1年課程は入学したら、すぐに就職活動しなければならず、(ある意味、専門学校の企業からの求人目当てで進学しました)事務職で採用試験を受けてもなかなか受からなかったのです。

3.プログラマー

1990年代・20代前半の頃。

そんな中、見つけた求人がプログラマー。

初任者研修があり、配属先には必ず先輩が業務指導で付きます、プログラミングが分からなくても心配はいりません!とのキャッチコピーで、多少不安はあったものの、就職を決めました。

新卒で実際に働き始めると、やはりプログラミングはド素人には難しく、私が配属になったところは先輩が人見知りで超無口。

あまり業務指導してもらえず、内容も理解できないことが多く、悩みました。

上司や営業担当にその旨を相談しましたが、改善してもらえず、1年半で退社。

その後、同業他社に拾ってもらう形で、プログラマーを更に1年半続けました。

しかしここの会社でも、業務指導のフォローがなく、スキルアップが見込めず、バブル崩壊でボーナスも出なくなりました。

業務の他に、ソフト開発にも乗り出していた時期で、休日に無償でソフト開発に参加しろという暗黙の業務命令も出たため、何かやってられないなぁ…と思い、プログラマーという職種に見切りを付けて退社しました。

このプログラマーの会社2社は、正社員雇用なんだけど仕事場所は得意先…という、派遣常駐スタイルの業態でした。

月に1回、自社に行って業務報告とミーティングをするという感じでした。

正社員なのに、自社で仕事しないで、得意先に自分の机があって、そちらに毎日出勤して仕事って…と、最初は戸惑いましたが、こんな働き方があるんだな、と初めて知った業態でした。

4.地方公務の臨時職員

1990年代・20代中盤の頃。

結婚し、住まいは夫の出身地(現在住んでいる所)に移りました。

半年程待ちましたが、地元の役所に臨時職員で採用が決まりました。

臨時なので半年更新の契約でしたが、長期で就労して良く、ほとんどの人が3年以上勤務していました。

私もここで、8年程勤務しました。

勤務期間中に子供達を妊娠・出産しました。

第2子出産時に長(役所の最高トップ)が変わったため、制度も見直され、長期休暇の取得が許されず、退職に至りました。

地方公務の仕事は安定していて、一番働きやすかったです。

契約更新毎に昇給し、臨時職員でも賞与が年3回支給され、有給休暇の取得も取りたい時に気兼ねなく出来ました。

正職員になりたくて、公務員試験も受験しましたが、チャレンジの甲斐なく採用に至りませんでした。

5.一般事務(期間限定)

2000年代・30代後半の頃。

第2子出産後から職を探したものの、地元では見つからなかったため、第2子が小学校入学まで無職で過ごしました。

3ヶ月の期間限定で、家から近い会社で事務員の募集があり勤務しました。

事務補助の仕事だったので、簡単なデータ入力やお弁当手配などの雑用のみでした。

待遇はパート、時給はまあまあ良かったです。(居住地域は、最低賃金以上の時給での雇いがほぼないので、良い方でした。)

仕事面・稼ぎ的にはたかが知れてる仕事でしたが、前職からブランク7年の社会人復帰は、正直嬉しかったです。

6.営業事務(契約社員)

2000年代・40代前半の頃。

期間限定事務パートが終了し、また希望職種の求人がなく半年程ブランクが空き、次に就いた仕事は契約社員の営業事務でした。

建設機械のレンタル会社で、データ入力と貸出対応・所内雑用など、業務は多岐でした。

機械の知識やレンタル業務の手順、コンプライアンスも厳しく、やらなければならない事務仕事がたくさんあり、覚えるのに必死でした。

そんな中、東日本大震災が起こりました。

地域や会社に被害はなかったものの、工事などの仕事が減り、機械レンタルも落ち込んだため、契約満了で解雇になりました。

7.ストッキングの製造員

2010年代・40代中盤の頃。

東日本大震災の影響で、しばらく求人が手薄に。

なかなか希望職種の求人が出ないため諦め、急場をしのぐため製造業の作業員でパートで働きました。

時給は最低賃金、女の人が多い職場で、グループ作業ですが、ケンカや悪口・いじめが多くて、半年程勤務して退職しました。

8.営業事務(契約社員)

2010年代・40代中盤の頃。

転職しようと思い始めた頃、建設機械のレンタル会社から連絡があり、人員を増やすので復帰しませんか?と声がかかりました。

通勤も近く、日給も前回より上げてくれるという事なので復帰する事にしました。
この復帰再スタートでは4年半勤務しました。

東日本大震災後の復興業務がいまいち盛り上がらず、営業所を閉鎖・統合する事になりました。

隣町の職場に異動できましたが、通勤時間が10倍(5分→50分)になり、所属長が変わると業務の仕方や残業も増え、有給休暇の取得もままならなくなりました。

人間関係も良くなくなったため、契約満了を機に退職する事にしました。

アラフィフからの再就職

アラフィフになりこれからの働き方を考えてみました。

一般に言う定年・60歳まで、あと10余年です。

今までの働き方は、採用された会社に私が合わせていく働き方でした。

勤務地が変われば長距離でも通いましたし、残業してと言われればしてきました。

役所で働いた以降は賞与もない、有給休暇を取るにも気を使いました。

今後、正社員での就職を望んでも、採用には至らない気がします。

企業は年増な人にコストをかけるより、若い人を採用して低コストで経費は抑えるはずです。

今までと同条件の働き方しかできないのであれば、これからは私に仕事の選択権がある働き方をしていこうと思います。

例えば、残業は絶対しない、完全週休2日休業は必須、会社以外での付き合いを極力無い、など。

会社に尽くしても、会社は私を守ってくれる訳ではありません。

逆に、必要なければ切り捨てます。

そんな会社や仕事に、あと10余年を費やすのはしんどいです。

自分優先で人間関係の煩わしさがなく、極力楽にこなせる仕事を選んでいこうと思います。

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この記事を書いた人
鈴木ゆか(とれふる)

老後を気にしだしたアラフィフ。
ハケンで働くOLです。
シンプルで適量な生活を始めるために、アラフィフから老前整理をして自分の持ち物を減らして身軽に。
心配事や悩み事はアラフィフのうちに解決して、明るく楽しい老後を目指します!
入浴剤などバスグッズ好き。特にLUSH。
生活関連情報や買い物をレビュー。

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